LOGINソファの背もたれに頭を預けて、天井を見つめる。真っ暗な部屋のなかに、カーテンの隙間からやわらかい月明かりが差し込んでいた。壁の向こうの鼻歌は、いつのまにか止んでいた。
どれくらいそのままでいたのだろうか。伏せていたスマホが、再び震えた。
響からの二通目のメッセージ。
『今、いつものカフェに来てる』
いつものカフェ。その言葉に、胸をえぐられた。真尋と響がデートのたびに通っていた、あの店だ。半年前まで、毎週のように向かい合って座っていた席。響はいつもカフェラテを頼んで、真尋はドリップコーヒーを頼んだ。
そこに今、響がいるという。まるでまだ付き合っているみたいに。
なんで今さら――。
真尋は画面をじっと見つめた。
会うべきか。いや、もう別れたのだ。響に会う必要はないはずだ。真尋の愛が重いと言って別れを切り出したのは響のほうだ。
だったらこのまま無視すればいい。
でも、せっかく連絡をくれて、あのカフェで待っている。真尋に話があるか
颯太の言葉が、毒のようにじわじわと真尋の中に広がっていた。「あの夜の席の配置は、仕込みだと思う」 片桐が晃を真尋の隣に座らせた。「こちらへどうぞ」と、あの人懐っこい笑顔で。あれは偶然じゃなかった。 颯太の情報はきっと正しい。片桐から直接聞きだしたのだ。颯太はいつだって理論的で、細やかなリサーチに基づいて話す。感情論で真尋を脅そうとしているわけじゃない。 けれど。 片桐がいつも正しいことを言っているとも限らない。バーテンダーは客を楽しませるのが仕事だ。話を盛って、面白おかしく話すことだってあるだろう。「友達の好みの男がいるから隣に座らせた」。それだけ聞けば仕込みに聞こえるが、知り合いの客に空いている席を勧めただけかもしれない。 あの夜のことを思いだす。月虹のカウンター。真尋のほかに客はまばらだった。空いている席はいくつもあったのに、片桐はわざわざ真尋の隣を勧めた。「好きな席にどうぞ」でもよかったはずだ。 一度疑いだすと、すべてが怪しく見えてくる。本が好きだと言ったことも、栞堂のPOPを褒めてくれたことも、差し入れの味が真尋の好みだったことも。 全部、リサーチ済みだったとしたら。 疑いたくない。 本の話をするときの晃の顔は、本物だった。真尋がイシグロの話をしたら、晃はカーヴァーで返してきた。本をしっかり読み込んでいないと出てこない話題に、目を輝かせていた。付け焼き刃で読んだ人間に、あの深さは出せない。 それに。 あの夜、関西弁が漏れた声。「聞きたない」と叫んだ震えた声。真尋を抱いたときの、やさしいのに切ない手つき。あれが計算だとしたら、晃は相当な役者だ。広告代理店でプレゼンの鬼と呼ばれているとしても、あそこまで全身で嘘はつけないだろう。 じゃあ、なにが本当で、なにが嘘なのか。 出会いの仕掛けは嘘。でも、そのあとの感情は本物。そんな都合のいい話があるのだろうか。 響のことを思いだす。響も最初はやさしかった。真尋が好きな本を話しても笑顔で聞いてくれた。でもそのうち、退屈そうにして話題を変えるようになった。最初だけ相手に合わせて、慣
片桐からのメッセージ――「オペレーション・グッドネイバーの進捗どう?」が、頭の片隅に引っかかっていた。 けれど真尋は、あえて深く考えないことにした。友達同士の冗談だろう。ふざけた作戦名をつけて、からかい合っているだけだ。男同士なら、そういうこともある。 それに、晃とは寝たけれど、恋人になったわけじゃない。他人のスマホの通知を勝手に見たこと自体が後ろめたい。詮索する権利なんて、真尋にはない。 朝、晃が目を覚ました。 バツが悪そうに体を起こして、真尋と目を合わせないまま言った。「すみません……。昨日は、酔っ払ってて……」 その声は、昨夜の荒々しさが嘘のように小さかった。関西弁の痕跡もない。丁寧な標準語に戻った晃は、まるで別人のようだった。「うん……俺も、酔ってたから……」 真尋もうまく言葉が出なかった。シーツの乱れた自分のベッド。ワインの空きボトルが転がる部屋。昨夜あれだけ激しく求めてきた男が、今は目をそらしている。手首のあとと、首筋のかすかな痛みだけが、あの夜が現実だったことを証明していた。 晃は服を直して、「失礼します」と小さく頭を下げて、部屋を出ていった。 隣のドアが閉まる音。そのあと、いつもなら聞こえるはずの鼻歌が、聞こえなかった。 真尋と寝たことを後悔しているのだろうか。 でも昨夜、晃は真尋を激しく求めた。元カレの話を持ちだしただけで、関西弁が漏れるほど取り乱した。あれが演技だとは思えない。嫉妬していた。真尋を誰にも渡したくないと、体ごと訴えていた。 それなのに、朝になったら「酔ってた」で片づける。 真尋は、昨夜あの寝顔を見ながら自覚したことを思い出した。好きだ、と。この人のことが好きだと、はっきり思った。だから荒々しく求められても嫌じゃなかった。こわかったけれど振り払えなかったのは、晃の感情が本物だと信じたかったからだ。「晃さんは、なかったことにしたいのかな……」
響と会ってから三日間ずっと、不思議と晃に会わなかった。 あれほど毎日のように、どこかで遭遇していたのに。差し入れもドアノブにかかっていない。壁越しに鼻歌が聞こえるから隣にいることは確かだが、廊下で顔を合わせることがぱったりとなくなった。まるで真尋を避けているみたいだった。 いや。避けているのは、真尋のほうかもしれない。あの朝、腫れた目を見られたくなくて、エレベーターのドアを閉めた。あのとき晃がどんな顔をしていたか。扉の向こうで見た鋭い目を思いだすたびに、胸がざわつく。 真尋にとっては、会わないことがありがたかった。今、晃のやさしさに触れたらきっと涙が溢れてしまう。 結局、響からはあれ以来なんの連絡もなかった。「やり直さない?」と言った割に、ほったらかしだ。復縁を持ちかけておいて、三日間放置できる神経がわからない。 やっぱり響は真尋が恋しいわけじゃない。もし本当に恋しいなら、もっと必死に連絡してくるはずだ。真尋ならそうする。つなぎ止めたい人がいたら、メッセージを送って電話をかけて、追いかける。 そこまで考えて、あ、と我に返った。 これが「重い」って言われるんだよなあ。 自分でもわかっている。好きになったら一直線に相手に気持ちが向いてしまう。いつでも恋人を優先する。束縛しているつもりはなくても、同じ熱量を相手にも求めてしまうところがあった。 いつかは響に返事をしなければいけない。けれど今は、なにをどう返していいのかわからなかった。まだ響を忘れられないのか、それとも晃のことを好きになりかけているのか。自分の気持ちが、自分でいちばん見えない。 数日後の休日。真尋は行きつけのカフェで午前中を過ごした。窓際のソファ席に深く沈み、カーヴァーの短編を読んだ。やわらかい日差しがページを照らして、このところ荒んでいた気持ちが、すこしだけほどけていく。本を読んでいるあいだだけは、響のことも晃のことも考えなくていい。 ランチを食べて、夕方までゆったりと過ごした。 帰り道は目黒川沿いを歩いた。六月の緑が川面に映って、やわらかく揺れている。春にはソメイヨシノが一面に咲き
ソファの背もたれに頭を預けて、天井を見つめる。真っ暗な部屋のなかに、カーテンの隙間からやわらかい月明かりが差し込んでいた。壁の向こうの鼻歌は、いつのまにか止んでいた。 どれくらいそのままでいたのだろうか。伏せていたスマホが、再び震えた。 響からの二通目のメッセージ。『今、いつものカフェに来てる』 いつものカフェ。その言葉に、胸をえぐられた。真尋と響がデートのたびに通っていた、あの店だ。半年前まで、毎週のように向かい合って座っていた席。響はいつもカフェラテを頼んで、真尋はドリップコーヒーを頼んだ。 そこに今、響がいるという。まるでまだ付き合っているみたいに。 なんで今さら――。 真尋は画面をじっと見つめた。 会うべきか。いや、もう別れたのだ。響に会う必要はないはずだ。真尋の愛が重いと言って別れを切り出したのは響のほうだ。 だったらこのまま無視すればいい。 でも、せっかく連絡をくれて、あのカフェで待っている。真尋に話があるから呼んだのかもしれない。無視するのは真尋の性格に合わない。既読スルーだけはしたくなかった。昔からそうだ。どんなに傷ついても、相手からの連絡を無視することだけはできない。颯太に言わせれば、それが真尋の「お人好し」で「重い」ところなのだが。 返信しようと指を伸ばすが、指先が震えている。なんて返すのがいいのか、わからない。会いたくないわけじゃない。そう思ってしまうことが、いちばんつらかった。 しばらく画面を見つめたまま、時間だけが過ぎていく。 真尋は息を深く吸い込んで『いいよ』と、たった三文字を返信した。 カフェに着くと、まばらな客の中に響はいた。窓際の席に座ってスマホを見ている。真尋が入ってきたのに気づくと、目を細めてほほえみながら右手を上げた。 相変わらず、洗練された男だ。黒髪をセンターパートで流し、ブランドものをさりげなく着こなしている。まつげが長くて、涼しげな奥二重。営業スマイルと本音の笑顔の区別がつかない。アパレルのプレスとして華やかな業界にいる響は、半年前となにも変わってい
颯太の言葉が、頭から離れない。「渋谷から目黒のこの辺を、わざわざ選ぶか? お前の隣の部屋を、だ」 渋谷と目黒は隣り合う区だから、近いと言えば近い。けれど真尋が住んでいるのは目黒でも外れのほうで、世田谷区に近い。渋谷で働いているなら、通勤時間は確実に長くなるはずだ。 「静かな環境が好き」。晃はそう言った。でも、静かな場所なんて都内にいくらでもある。わざわざこのマンションの、この部屋を選ぶ理由にはならない。 それに、「渋谷のほう」という言い方も気になった。渋谷に住んでいたら、ふつうは「渋谷です」とだけ答えるだろう。「ほう」をつけるのは、正確には渋谷ではない場所に住んでいたからではないか。たとえば渋谷区に隣接した区なら、「渋谷のほう」というかもしれない。 考えれば考えるほど、なにが本当でなにが嘘なのかわからなくなる。 それでも、晃がほほえんでくれるときの目は、作り物じゃない。それだけはわかる。あのやわらかい目が嘘をついているとは、どうしても思えないのだ。「はあ……もう、どうしたらいいんだよ」 真尋はベッドの上で大きくため息をついた。 晃のことを信じたい。あの人の好意は嘘じゃないはずだ。でも颯太にはいつも「お前は相手を信じすぎる」と釘を刺される。響のときもそうだった。周囲の忠告を聞かずに信じ続けて、結局「お前は重い」のひと言で終わった。 颯太の言葉と自分の気持ちのあいだで、ふらふらと揺れている。そんな自分が嫌だった。 けれど悩んでいても、日々の生活は止まらない。 相変わらず晃は差し入れを持ってきてくれる。スーパーやゴミ捨て場で顔を合わせることもある。栞堂にもときどき来て、POP付きの本を買ってくれた。先日は海外文学の棚で、真尋のPOPをじっと読んでいる晃の背中を、レジの向こうから見つけた。あの真剣な横顔を見ているうちに、胸がいっぱいになった。 顔を合わせるたびに、モヤモヤはすこしずつ薄くなっていった。あの笑顔を見ると、疑いの輪郭がにじんでいく。やっぱり颯太は心配しすぎなのだ。こんな誠実な人が、なにかを企んで
夜中のベッドの中で、真尋はスマホの画面をぼんやりと眺めていた。颯太からのメッセージを、何度も読み返している。『お前の隣人の一ノ瀬晃。月虹のバーテンダーと大学の同級生だ。関西学院大の同じゼミ出身。お前と一ノ瀬が出会ったの、仕込みじゃないのか?』 文字は追いかけているのに、頭がその意味を受けつけようとしない。 いや、きっとたまたまだ。同じゼミ出身だから、知り合いのバーに飲みにきただけだ。あの夜、たまたま真尋もいただけで、それ以上の意味はない。 だってあの日は、颯太に誘われるがまま月虹に行ったのだ。真尋がバーに行くなんて、事前にわかっていたはずがない。 ……でも。 片桐が晃を真尋の隣に座らせたのは事実だ。あの自然な「こちらへどうぞ」。空いている席は他にもあったはずなのに、そこに座らせた。 だからってなにも決まったわけじゃない。知り合いの客がきたから、空いてる席に案内しただけかもしれない。 ぐるぐると同じ考えが行ったり来たりする。信じたい気持ちと、疑わざるを得ない事実が頭の中でぶつかり合い、真尋はどちらにも傾けずにいた。 髪をくしゃっと掴んで、真尋はため息をついた。「……もう寝よう。考えすぎたら余計にわかんなくなる」 枕に顔を埋めたが、なかなか寝つけなかった。何度も寝返りを打っては、壁のほうに目をやる。今夜は壁の向こうから鼻歌が聞こえない。それがかえって気になり、余計に眠れなかった。 しばらくスマホをいじって時間をやり過ごしていると、またメッセージが届いた。『明日、お前の家に行く。あいつに会わせろ』 颯太からだった。「……かあちゃんかよ」 思わず笑ってしまった。やっぱり颯太は、心配でたまらないのだ。『会えるかどうかわからないけど、とりあえずうちに来いよ』 そう返信すると、胸の奥にすこしだけ安心感が広がった。颯太だけは、ずっと味方でいてくれる。今はそれだけわかっていればいい。